開祖のことば
水というものは、第一に、汚いものを洗い流してきれいにする。
『無量義経』の「説法品」にも
「善男子、法は譬えば水の能く垢穢を洗うに、
若しは井、若しは池、若しは江、若しは河・溪・渠・大海、
皆悉く能く諸有の垢穢を洗うが如く、
其の法水も亦復是の如し」とありますね。
仏法の水でもって、個人的には心の垢を、社会的には世の濁りを、
世界的には地球の汚染を洗い流すという方向へ進まなければならない。
それを実践に移すためには、水の浸透性に学ばなければなりませんね。
水は常に下へ下へとくだり、また、物に浸み込んでいく性質があります。
われわれ法華経行者は、自分の救われだけでなく、
これも『無量義経』の「十功徳品」に
「未だ発心せざる者をして菩提心を発さしめ」とあるように、
まだ『法華経』に縁のない人々に救いの手を差し伸べなければならない。
また、水は柔らかで、素直な性質を持っていますね。
円い器に入れれば円くなり、四角い器に入れれば四角になる。
「我」というものがない。
人間も小さな「我」をうち捨てて——少なくともそれを抑えて——
天地の理とか宇宙の法則とかいうものに随順するときに、
ほんとうの自由自在を得ることができるんです。
さらに、水はいつも低い所にいる性質があります。
慢心をいだくこともなく、自分をひけらかすこともなく、
低いところに下がっている・・・・奥ゆかしいじゃありませんか。
また、水には「冷静」という性質があります。これがまた大切な徳性です。
日蓮聖人も『上野殿御返事』に、
「抑々、今の時法華経を信ずる人あり、
或は火の如く信ずる人もあり、或は水の如く信ずる人もあり。
燃え立つばかり思へども、遠ざかりぬれば捨つる心あり。
水の如くと申すは、何時も絶えせず信ずるなり」と、
水のような信仰を称賛しておられます。
最後に、水というものは、初めは一滴一滴の雨水ですが、
それが一度は土に浸み込んでから泉となって湧き出し、
それが集まって谷川となり、激しく流れ落ちれば水力電気をおこし、
平野にくだればいろいろな作物を育てる。
そして、たくさんの川が一緒になって大河となる。
ここが水のすばらしいところで、清濁を決して差別することなく、
みんな一緒になる。同化する。そして、ついには大海に流れ込み、
そこでまた多くの生命を育てますね。
信仰者の生き方も、行きつくところはこうでなくてはならないんです。
「躍進」1990年1月号 年頭指導より抜粋